インド旅行(2002年8月7日〜14日)

日程

8月7日(水) 関空14:00発(エアーインディア)−21:00デリー着 インペリアルホテル泊
  8日(木) デリー観光 インペリアルホテル泊
  9日(金) デリー(列車で)−ジャイプール ジャイマハールパレス泊
 10日(土) ジャイプール郊外観光     ジャイマハールパレス伯
 11日(日) ジャイプール(バスで)−アグラ ムガールシェラトンホテル泊
 12日(月) アグラ観光後、列車でデリーへ インペリアルホテル泊
 13日(火) デリー観光 夕食後空港へ デリー(エアーインディア)23:15−
 14日(水) 12:35関空

出発まで

 三男が来春に高校受験を控えているため、夏の旅行をあきらめていたが、7月に急遽思い立ち、前から行ってみたかったインドへ行くことにした。アジャンタやバラナシなど行きたい場所は他にもあったが個人旅行の8日間なので、あまり欲張らず、デリーを中心とした北インド3都市を巡る旅とした。航空券とホテルはHISに手配を依頼し、国内の移動は列車とバスにし、現地で自分たちで取ることにした。ホテルの選択基準は、足場のよい高級ホテルをリクエスト。トリプルルームを予約した。

8月7日(水)

 期待とやや緊張しながら暑い中、自宅を出発。香港経由のエアーインディアは満員。機内でお酒の提供がないとの情報もあったので、頼もうかどうか迷っていたが、思い切ってビールを注文するとすごい迫力のアテンダントからどーんと2本出されてびっくり。夫はそれで隣の座席の京大経済学部の先生と打ち解けて香港まで楽しくしゃべることに。先生はゼミの学生を連れて深せんの工業特区を見学に行くそうだ。これからはインドの時代になるというような話をしている。実際、どうなのかしらん。
 香港で日本人を含むほとんどの乗客が降機。空いてるのかなと思ったら、今度は彫りの深い浅黒い顔をしたいわゆるインド系の人がどっと押し寄せ、満員に。なんとなく機内がカレー臭に覆われた気がするのは気のせいか。
 夜、21:00デリー到着。荷物とタグを出口でつき合わせて確認され、インド入国。これって勝手に持っていくのを防ぐためか。問題はここからである。長男が1年半前にインドに来たときには、ここで客引きにだまされ予約していたホテルをキャンセルさせられ、安宿に連れて行かれ安いツアーに放り込まれたそうだ。これを防ぐためにプリペイドタクシーに乗りホテルの名前を告げる。真っ暗な中、土地勘もないところでどこへ連れて行かれるか不安だったが、無事インペリアルホテルに到着。ドライバーに明日のアレンジなどを誘われるが、わからないふりをして断わる。
 インペリアルホテルはコンノートプレイスに近い1933年創業の由緒正しきホテル。やや古いが天井の高いクラッシックな部屋に通される。一息つく。

8月8日(木)

 今日の仕事は明日のジャイプール行きの鉄道切符を買うことと、市内観光。
昨夜は暗い中着いたので周囲がどうなっているのかまず確認する。
インペリアルホテル

 ホテルを出てすぐの場所

ホテルの敷地を一歩出ると、道路を挟んだ向かいに屋台のようなものがあり、そこに数人が寝ているのを発見。中と外は大違いである。これから行く先々でこのことを実感することとなった。少し散歩すると街路樹にリスがいる。街中でリスとはと思ったが、これからいろいろな動物を見ることになる。朝食はパン、飲み物、卵、果物を注文する方式で、味も雰囲気も高級。団体客は見かけず個人客だけだった。
観光に際し、不慣れな場所なので安全を優先し、ホテルのツーリストの車を1日雇うことにする。高級車である。
 まず、鉄道の切符を買いにニューデリー駅へ。途中も駐車した場所も人がいっぱいである。2階の外国人専用窓口に行くがパスポートが必要と言われ、取りに帰る。並びなおし、明日の早朝のジャイプール行きとアグラからデリーに帰る夕方の列車を予約。インドの新幹線といわれる特急シャダブディエクスプレスでも3人でそれぞれ33ドルと27ドルとびっくりするぐらい安い。外人はドル払い。しかもお札の番号を1枚ずつ控えるので時間がかかる。とりあえず買えて一安心。
 ここからは、まずオールドデリーへ。ジャマーマスジッド(ここで見学料をぼったくられる)

ラールキラーなどを見学。どこも赤い色が印象的。

フマユーン廟

昼食はインド料理。午後は、郊外のクトゥブミーナール、

アラーイーの塔

トゥグラカーバード

 ニューデリーでは牛は減ったと聞いていたが、やっぱり野良牛はいた。子連れの路上生活者もいる。赤ん坊がはいはいしながら道に落ちたものを拾い食いしている。大きくなれるのだろうか。

8月9日(金)

 ジャイプール行きの列車は早朝の出発ということで、朝食はルームサービスを頼んだ。午前4時半、すばらしい朝食がテーブルごとやってきた。まるで王侯貴族の気分。ちゃんと列車に乗れるか内心どきどきしながらタクシーで駅まで。駅の案内でプラットホームを確かめる。駅の構内や通路で寝ている人がたくさんいる。薄暗いのでその人たちを踏まないように気をつけながら進む。何人かに場所を尋ねそれらしき場所に到着。シャダブディエクスプレス。

 なんと列車の入り口に乗客リストがはってあり、私たちの名前もある。すごい世界だ。乗り込むと、新幹線とは言わないが、ペットボトルも置いてあり、食事もでる。これで、1人11ドル。しかしインドでは最高級のはず、乗客の身なりもよい。すぐそばのたぶん2等の列車は押し合いへし合い人間が鈴鳴りの満員列車。
 特急と言いながら、割合ゆっくり進みジャイプール到着。突然たくさんのポーターが乗り込んできて荷物を持っていこうとするので自分で持つからと断わると不思議そうな顔をされる。1等には1等の振る舞いがあるようだ。が、やっぱり慣れない私たちは自分で荷物を持ち駅の外に出ると、大勢のリキシャ引きに取り囲まれ立ち往生。駅長さんらしき人に待合室まで連れて行かれしばし待つ。ようやく、人ごみがおさまったところで、外に出てタクシーでホテルまで。

リクエストしたマハラジャの狩猟用ロッジ、ランバーグパレスは取れなかったが、大臣の公邸だったというジャイマハールパレスへ。ここも充分豪華。途中で荷物を運ぶラクダを見る。砂漠の入り口なのでラクダがまだ使われているらしい。もちろん牛も、豚もいる。
 ここでインド定食を食べ、アンベール城へ。



ここは象に乗って城までいけるというので人気があるが私たちは車で。今度は途中で野生のクジャク発見。動物でいっぱいだ。朝早くから起きて疲れたが、ホテルのプールのぬるい水につかって泳いでいたら元気回復。夜は渋る夫を説得し、リキシャで外のレストランへ行く。

8月10日(土)

 昨夜の間にホテルの車をチャーターし郊外のアジメールとプシュカルへ行くことを思いつく。交渉がまとまり果物を買って出発。おそろしくエアコンの効いた高級車で一路アジメールへ。対向車が来ているにもかかわらず、ぎりぎりのところで追越をかけるので恐ろしいことこの上なし。トラックがほとんどだ。途中のホテルでオートリキシャに乗り換えアジメールへ。家と家の間のこんなとこ通れるのと思うような曲がりくねった細い道をすごいスピードで進む。まるでジェットコースターに乗ったような感じ。部屋の中も丸見えだ。モスクの前は人でいっぱい。靴を脱いで入る。



赤い建物ばかり見ていたので白い大理石の建物が珍しい。何がなんだかよくわからないほどめまぐるしく、貴重な体験だった。
 車に戻り昼食後はヒンドゥー教の聖地プシュカルへ。


 ここでも靴を脱ぎ、3人別々に案内される。これが曲者だった。息子はわけがわからないままに持っていたお小遣い全部を喜捨としてさしだす羽目に。
 帰りもまたおそろしい追い抜き競争。ホテルに着いたらやれやれだった。

8月11日(日)

 今日はバスでアグラへ。面倒なので手配を頼んだらバス代よりも手配代のほうが高い。エアコン付きのバスで出発。

 途中休憩一回。赤い建物があって大勢人が降りた所があった。後でファテープルスィークリーとわかる。結局翌日行くことになったが、わかっていたら降りて見学し、次のバスに乗ったのに。しかし乗れたかどうかわからないので、これでよかったか。まだまだとのんびりしていたら隣の席のおじさんがアグラだと教えてくれる。あいにく雨も降り出してきた。あわててリキシャに乗りホテルまで。雨にぬれてひどい格好でシェラトンまで行く。高級ホテルシェラトンにリキシャで乗りつける人はいないようだ。取りあえず部屋に通してもらえたが、何だか半地下のような部屋だった。あの格好では足元を見られたのだろう。仕方がないか。明日の晴れを祈る。

8月12日(月)

 いろいろツーリストにあたったが、結局ホテルのツーリストオフィスでタクシーをチャーターし夕方まで観光をすることに。
まず、タージマハルへ。
白い大理石の夢のような建物。靴を脱いで見学。あばら家が立ち並ぶ外との落差もすごい。





対岸のアグラ城も見える。ついでアグラ城へ。シャージャーハンは何を思ってここの塔にいたのだろう。
ファーティプルシークリーへ。赤い建物。




途中の道に熊遣いがいる。ロマの人たちはここから出て行ったのだとか。
大理石のみやげ物は買うのをあきらめ(重いし、買っても置くところがない)アグラ駅へ。
 夕方の列車でデリーへ。

真っ暗な中、インペリアルホテルへ到着。

8月13日(火)

 今日は国立博物館をじっくり見て、のんびり。オートリキシャで行く。あまりにも展示物が多くてあきれる。
オートリキシャでみやげ物を買いにいく。ルピーをドルと言い変えられて料金をぼったくられそうになる。こんなこともありかと、ルピー札を握りこんでいたので、さっさと置いてリキシャから離れる。日本円にするとわずかかもしれないが、悔しいし。
ホテルで夕食を食べ、空港へ。

旅行を終えて

 急に思い立ち、バタバタと準備したわりには、行程はスムーズだった。個人で行動して宿泊は高級ホテルという国内旅行ではよくあるパターンをインドでもやろうとしたわけであるが、ホテルの施設は充分使いゆっくりできた。日本では泊まれないような豪華なホテルにビジネスホテル並みの値段で泊まれたので満足感は深い。もちろんインドでは大金である。日本ではしたことがない運転手付きの専用車で自分たちの行きたいところを観光した。ホテルが高級であるため、ホテルの観光業者を利用すると割高ではあるが、変なことはしないだろうという安心感はある。ホテルの内と外の落差、列車の1等と2等の差。日本と比べると階級差と貧富の差が、はっきり見える。。日本のお金を持っていけば超一流、しかし気分は中流、振る舞いや服装は中の下、英語もあまりできないし。私たちも落差を感じたが、現地の人も私たちを見て落差を感じただろう。個人旅行をしていると、団体旅行と違い日本人同士の中で気を遣わなくてもいい分日本人としての自分の立ち位置が少しずつ見えてくる。これをどう受けとるかで、欧米好きと途上国好きとに分かれるのかも。途上国では円が遣いでがあるのは魅力的。
 この旅行では、カレーはほとんど食べず、タンドリーチキンやスープが多かった。前にネパールに行ったときに、当分カレー味のものを食べたくなかったのでやめた。夫や息子からはインドに行ったのに全然カレーを食べなかったと文句をいわれた。タンドリーチキンはおいしい。出来立てのナンも美味。ビールが飲めるレストランは高めでほとんど観光客向けのようだ。ホテル近くのマクドナルドでベジタリアンバーガーを食べてみればよかった。幸いおなかをこわすことなく帰国。

山いっぱいの辛夷(2011年4月10日)


純白の花がきれいな辛夷
 4月に六甲山に行けるのは今日で最後。好天に恵まれ暖かい日。蓬莱峡に向かうあたりから遠く山全体に白い花が咲いている。辛夷だ。太陽の光に映えて輝くような純白の色。昨年も見たが、今年はちょうど晴天と満開の日が重なったようで格別の美しさ。

庭の桜。満開
 今年は寒い日が多かったせいか、一気に花が咲いて春が来た。震災から1ヶ月、まだまだ東北に春は遠いようだが。

石垣島(2011年3月11日〜14日)


波照間島の海岸。台風で打ち上げられた岩がゴロゴロ。
 3月11日〜14日まで、石垣島へ行っていた。初めてである。はからずも大震災の日に出発したことになった。複雑な気持ちであるが、ここにも日本の問題があると思ったので以下に。

3月11日(金)

 伊丹、那覇乗り継ぎ石垣島午後着。ホテルへチェックイン。予約していたより2ランクアップの高層階の部屋にうれしい変更。眺めがよく気分をよくする。すぐにレンタカーで島内観光に出た。途中携帯で連絡をとろうとしたら、通じなかった。電波の状況が悪いのかと思っていたら、姪より第一報の電話。その後東京からEメールがきた。今回の地震津波の連絡だった。関東にいる息子たちの無事はメールで確認できた。場所が東北らしいということで東京はさほどの心配はないと思われた。東京は電車が動いていないため、帰宅難民がでることは予想されたが、点検が終われば動き出すだろう、そう思っていた。
 石垣島津波警報が出ていた。海岸に近づけないので早々にホテルに帰る。
テレビを見て、相当な被害になると思った。ここまでひどくなるとは思っていなかったが。夜遅くまでテレビを見ていた。

3月12日(土)

 前日に波照間島のツアーを申し込んでいたが、津波警報のため船が欠航になったので島内観光に変更。レンタカーで島内を一周する。石垣島に滞在している人たちは船の欠航のためどこにも行けないので、みんな島内観光のはずだが、そんなに人は多くない。どこへ行ったのだろうか。津波警報は出ているが、海は静かである。途中、移住者の人の住宅らしきものが見えたので見学。眺めがよくおしゃれな建物だが、車がないと買い物は不便そう。一日何をして過ごすのだろうか。
 午後には、警報も解除されたようなので、明日は波照間島に行くことにする。ホテルに泊まっている団体客の中に関東、東北の人が多くいるらしく、係の人が帰りの対応に追われている。

3月13日(日)

 波照間島でレンタサイクルに乗る予定だったが、急遽変更して、波照間島西表島の2島に行くことに。海は穏やかで透明度が高い。
波照間島はかつての津波で集落を海のそばから、中心部に移転したそうだ。
 西表島で印象的な話を聞く。途中、一車線の道路を歩道つきの片側1車線に拡張工事中だった。しかし、歩いている人もいないしすれ違う車もない。地元の人は台風でよく倒れて停電する電柱を地下に埋め込む工事を要望しているが、予算がないと聞き入れられず、山を削って道路拡張工事をしているそうだ。イリオモテヤマネコの地下通路まで作っている。冗談かと思ったら本当の話。だれが、喜ぶのだろうか。土地を持っている人と建設業者か。

3月14日(月)

 夕方の出発なので、黒島へ行くことにする。レンタサイクルを借りて島内観光。海のきれいな人より牛の多い小さな島。のんびりと広い道路を走る。走っている車がいない。歩いている人もいない。牛だけがたくさんいる。自転車としてはこんな走りやすい道はないが、なんのために、こんな道が必要?ここも西表島と同じか。途中で、自転車の前かごの中に入れていた虎の子のおにぎり二つのうち一つをカラスに食べられる。一つ200円もしたのに。ちゃんと袋の中に入れていたのだが。そういえばカラスに注意と書いてあった。

旅行を終えて

 着いて早々に今回の地震津波。家族の無事が確認できたこと、被害の実態がまだまだつかめていなかったこと、関西に直接被害がなかったこと、遠く沖縄にいるとあまり実感がなかった。予定を変更するつもりはなかったが、羽田、仙台空港の混乱などから予定の変更は難しかっただろう。
 初めての石垣島、沖縄の離島の実態は見なければわからない。ここにも不要と思われる公共工事が。30数年前、田中角栄氏のお膝元越後湯沢に行ったことがある。山から下りて、バスに乗ろうとしたがバスはなく、最寄の駅まで歩くことに。広い道路をてくてく歩く。途中でヒッチハイクをしたかったが通る車無し。豪雪地帯で冬には消防車や救急車が通れないからと作った道だそうだ。30分以上歩いて駅に到着。何人のためにこの道が作られたのかと思った。それからも道路は作り続けられ、日本の道路網は発達した。
 小学生のときの運動会の組み体操は最後にまだできていない瀬戸大橋を作るのが恒例だった。今本州と四国を結ぶ橋は三つ。便利になった。便利になったが、地方は人口流出が激しく、都会特に東京ばかりに人口が集中している。今回の地震津波の後に起こった予期せぬ問題は福島の原発の行方と首都圏の電力不足。地方が都会のエネルギーを支えるという仕組みは変わるのか。一時、移住ブームにわいた石垣島もブームは去って空き部屋がたくさんだとか。これといって産業のない島では、観光と公共工事しか生きていく道がない?都会と地方の関係をここでも考えることになった。

4月1日に

 4月1日から新年度。このブログで個人的な意見をあまり書く気はなかった。でもどうしても書かずにはいられないので、感情的にならないように書きたい。
 まず今回の地震の被害についてである。東北の津波の被害は甚大である。家族も家もお金も仕事も失った人々が避難所または親戚の家などで暮らしている。どんなにか心身ともに疲れ果てていることだろう。将来の不安はもちろんのこと、今を何とか生き延びなければいけない。心からお見舞い申し上げたい。
 一方、東京および近在の人たちは、ほとんどの人が被災者ではない。液状化現象によって家が壊れた人たちを除いて、水もガスも電気も使えるはずだ。停電はあくまで計画停電で、仕事上は相当問題が出てきているようだが、個人は何とか対応可能だ。放射能の問題も、心配ではあるが、屋内退避20キロ以内の人を除いて、今の時点ではさほどの問題はないはずだ。もっと科学的な話をしよう。専門家は風評被害を防ぐためにわかりやすく何が問題で何が問題でないか明確にしよう。むしろ煽っているように見えるのはどうしてか。悪い予想をして好転すれば誰にも文句を言われないが、よい予想をして悪くなると自分の立場がないからか。
 例えばテレビのニュース。アメリカは半径80キロ以内を退避範囲としたという。だから日本の政府は何か隠しているのではないかと言い、人々の心を不安にさせる。一体何人のアメリカ人がそこにいるか数字を出してほしい。少し乱暴な言い方をすれば、どこかへ行ける人はできるだけ混乱している場所にいないほうがいいということでは。例えば先日のニュージーランド地震のとき、日本にいる家族は帰ってきなさいと言ったのではなかったか。それは帰る場所があるからだ。半径80キロに住んでいる日本人の数、そしてどこへ移動するにしても、ゆっくり寝られる場所があるのだろうか。緊急事態を除いて、できるだけ退避をする人を減らすのは当然ではないか。ヨウ素は成人のしかもお年寄りにどれだけ影響するのか。慣れない暖房もない場所で寝ることで体を壊す心配とどちらが影響が大きいのか。人間は完璧な状況で生きていけるわけではない。まして非常時には状況を考えた選択が必要である。その場にいる人が不安になるのはわかる。しかし、それを放送する人はもっと冷静になるべきだ。本当に危険かどうか確かめるべきだ。徒に不安を煽ってはいけない。もっと正確な知識を得て、現実的に伝えよう。被災地の人にその余裕がなくても、東京にいるマスコミの人にはそれができるはずだ。あなたたちは本当に困っている被災者ではない。
 そして、なぜ通常の生活を送っている関西の電気をなぜ使えないか、それをもっと考え伝えるべきだ。明治の導入段階でどの国から発電機を導入したかでヘルツの違いが出ているが、今先進国の中で一つの国の中でヘルツの違う国はない。どこかでヘルツの統一ができたはずだ。その必要性を言われながら、費用がかかるという理由で手をつけないまま今まできた。それは政治の問題ではないか。ヘルツが違えば競争にならず利権を維持できる、そう勘ぐりたくなるほどに。マスコミがこのことについて何も言わないのはどうしてか。重ね着、節電結構である。誰に言われなくても、自分で支払うお金を少なくしたければ、節電をするのは別にエコでもなんでもない。当然のことである。一人ずつ別の場所でテレビを見るのをやめる、できるだけテレビを見ない、テレビ局はそう呼びかけてはどうか。それだけでも節電になるはずだ。たぶんそんなことは言わないだろうが。つまり個人レベルでできるような瑣末なことをいちいち取り上げるより、根本的なことを解決しなければ、またいつか困ったことになる。小手先だけの解決をしても、根本的な解決にならない。
 24時間営業の店、いつでも何でもあるスーパー、都会では数分に1本電車が来る生活、遠く郊外からの通勤、これらはたくさんの電気を使うことで成り立っている。東電の総電力に占める原発の割合は約20%、火力発電も被害を受けたために電力不足に陥っている。夏はクーラー、冬場は薄着で暖かい部屋で過ごし、トイレはウォッシュレット。電車や車で簡単に移動できどの季節でも食べたい野菜が食べられる。病気になればすぐに薬が手に入る。この快適な生活で長寿を実現してきた。その生活を維持するためにエネルギーが必要だ。本当にこの生活を変えることができる?阪神大震災のときも、そして昭和天皇崩御前のときも、そのときだけ、自粛ムードが高まった。けれど、目先の問題がなくなれば、すぐ忘れてしまったのではないか。今回の大きな犠牲をまた小手先の対応ですませてしまう?
 そして、今何の影響もなさそうな関西。関西電力のほうが原発の割合は東京電力より高いと言われている(30%〜50%正確な数値が不明)。もし福井で地震が起こったらどうなる?原発反対なら、代替エネルギーは何にする?
 みんなで協力して今の状況を打開しようとすることは大切だ。しかし、そのことと根本的なエネルギーの問題の解決は別に考えるべきだ。電力不足は企業活動により深刻な影響を与える。それは個人的な節電の域を越えている。経済活動の低下は日本を本当に貧しくさせてしまう。税金を払う人がいなくなるからだ。誰かが助けてくれるのではない、自分たちでその国を維持していかなければいけないのだ。税金を払う人がいなければ、子ども手当ても年金も論外の話。日本が貧しくなってもいいと言うあなた、あなたの言う貧しさとは何ですか。どこまでの貧しさだったらOKですか?本当の貧しさを知っていますか?マリーアントワネットが「パンがないならブリオッシュを食べれば」と言ったことを笑えますか?明日食べるものもない、知り合い、親戚中を頼ってもどこにも食べるものがない、お金もない、それが本当の貧しさだ。津波で何もかも失った状況を見てください。あの生活がずっと我慢できますか。もっと現実的に考えよう。私たちはどんな国に住みたいのかを。

このひとつき(日本丸どこへ)

 更新できなかった約1ヶ月、六甲山へ3回。日差しは春の気配だがまだまだ寒い日が続く。もう3月の末なのに。それでも、昨日陽光桜が一輪咲いた。やっと春だ。3月11日の東北・関東大震災津波の被害の甚大さ。それに追い討ちを掛けるような福島第一原発の事故。しかし、今関西はいつもと変わらない日常生活がある。
 16年前の1月17日、5時46分、我家は尋常でない揺れに襲われた。ベッドの上で菱形にゆがむ部屋を見ながら「ローンどうしよう」と考えていた。幸い、家は多少のひびが入っただけで、壊れることはなかった。食器は棚から落ちて割れうず高く積もっていた。電気はつかず、水道は止まった。ガスは数時間使えた。自分の家だけがひどいのか、他のところも被害があるのか情報がなかった。ただ、早朝だったため、家族はみな家にいて怪我もなかった。寒いけれど青空のきれいないい天気の日だった。近所の無事を確かめた。片付けをし、山へ水を汲みに行った。1本だけ電話がかかってきた。近くに住む高校の同級生からだった。神戸の長田が燃えていると。電気が止まったので、テレビを見ることができない。確かめることはできなかったが、自分たちより被害がひどいところがあることがわかった。それ以降電話は不通だった。携帯電話はまだ持っていなかった。街の状況を確かめるため、自転車で家を出た。お墓の横で違和感を感じた。墓石が倒れて、遠くまで見渡せるのだ。曲がり角のマンションの階段部分が本棟と離れて傾いていた。古い瓦屋根の家がつぶれていた。池の横は地割れがして波打っていた。ガス臭いにおいがし、あちこちでサイレンが鳴っていた。電車は動いているようだった。知り合いの無事を確かめて回った。スーパーに水はなかった。学校は休みになった。
 夕方になって電気がついた。テレビをつけ、ホットカーペットに電源を入れた。ようやく情報が入ってきた。大勢の人が亡くなったこと、長田が火事で燃えていること。次第に死者の数が増えていく。夜明るい電気にほっとしたが、また余震が来るかもと思うと、不安だった。1階に服を着たまま、みんなで寝た。
 早朝5時半ごろ、電話が鳴った。実家の父からだった。地震以降、全く家からの電話が通じないので、近くの公衆電話まで行ってかけてきたのだ。宝塚の被害も報じられていたので、心配していたが連絡が取れたことで安心したようだった。それからすぐ夫は会社に行き、私と子供たちは家で片付けをした。その頃、何を考えていたのか、今はあまり覚えていない。ただ落ち着かず、食べて元気を出さなければと思っていた。学校は1週間後に再開した。家を失った人が小学校の体育館に寝泊まりしていた。我家は高台にあるためか、戸数が少ないためか、ガスは2月中旬、水道は3月下旬まで復旧しなかった。お風呂は知り合いの家で入らせてもらったりしたが、途中から以前住んでいた家がプロパンなので3日に1回ぐらいそこで沸かして入った。洗濯はあの電話をくれた友人の家でさせてもらった。ほんの一筋道が違うだけで、被害の状況が違った。最初から電気もガスも水も使える家も多かった。
 だんだん復旧が進み日常が戻ってくるにしたがって、それぞれの違いがより明らかになってきた。水道、ガスが使えないことは不便ではあったが、給水車がきたり、ホットプレートで調理したり、何とか生活できることもわかってきた。電気が使えるので、炊飯器で温かいご飯が食べられるのは楽でありがたかった。電車で30分、大阪に行けば普通の生活があることもわかった。復旧作業が急ピッチで進む中、家を失った人、仕事を失った人、何より家族を失った人の痛手は日が経つにつれて増していくようだった。
 3月には東京で地下鉄サリン事件が起こった。最後の水道も復旧し、家も仕事も家族もいる私たちにはだんだん震災のことも過去のことになりつつあった。早くつらい話を忘れたかった。いつのまにか復旧が復興という言葉に置き換えられた。
 そして、16年後の関西、宝塚の我家の回りは、ようやく春が訪れようとしている。ペットボトルの水、電池が品薄なことを除けば、物のたくさんあるいつもの生活だ。テレビを見なければ地震はなかったかのようだ。しかし心は落ち着かない。
 テレビで見る被災地の生活は過酷だ。実際に避難生活を見たことがあるだけにテレビに映さない状況も想像がつく。しかし津波で瓦礫の山になった町は阪神の比ではない。亡くなった人の数、行方不明の数、仕事を失った人の多さ、避難している老人の多さ。どれもが東北の実情を映しているようだ。しかも原発放射能の問題。電力不足による計画停電。東京近辺も騒がしい。
 社会の問題はいくつか明らかになってきた。誰にも決められない運と不運。何よりどこにも絶対はないことだ。どんなに知恵をめぐらせても、想定外のことは起こる。東京一極集中の危険。通常は集中することでコストを下げることができるが、非常時にはそれがリスクになる。電気を止められた都市の生活のもろさ。この小さな国で、電力を融通できない不合理。それを放置してきた政治。原発の状況次第では、このまま日本が存続できるのかさえ心配になる。感情的にならず、構造的な解決ができるのか。直接当事者ではない私は何をどう考えるのか。考えているだけで無力な自分を感じる。
 

雪の六甲山(2011年2月13日)


 11日には家の周りでも積雪だったので、道路状況を考え13日に六甲山へ。車で30分で別世界。連休とあって、大勢の人、主に高年の団体。多分滝見物だろうが、滝は半分ぐらいしか凍っていない。3週間前と比べても、雪ははるかに多いのに。滑るのでアイゼン(6本爪)をつける。パタゴニアのキャプリーン4とモンベルのフリースの2枚でうっすら汗をかくぐらい。風がなく暖かい。