このひとつき(日本丸どこへ)

 更新できなかった約1ヶ月、六甲山へ3回。日差しは春の気配だがまだまだ寒い日が続く。もう3月の末なのに。それでも、昨日陽光桜が一輪咲いた。やっと春だ。3月11日の東北・関東大震災津波の被害の甚大さ。それに追い討ちを掛けるような福島第一原発の事故。しかし、今関西はいつもと変わらない日常生活がある。
 16年前の1月17日、5時46分、我家は尋常でない揺れに襲われた。ベッドの上で菱形にゆがむ部屋を見ながら「ローンどうしよう」と考えていた。幸い、家は多少のひびが入っただけで、壊れることはなかった。食器は棚から落ちて割れうず高く積もっていた。電気はつかず、水道は止まった。ガスは数時間使えた。自分の家だけがひどいのか、他のところも被害があるのか情報がなかった。ただ、早朝だったため、家族はみな家にいて怪我もなかった。寒いけれど青空のきれいないい天気の日だった。近所の無事を確かめた。片付けをし、山へ水を汲みに行った。1本だけ電話がかかってきた。近くに住む高校の同級生からだった。神戸の長田が燃えていると。電気が止まったので、テレビを見ることができない。確かめることはできなかったが、自分たちより被害がひどいところがあることがわかった。それ以降電話は不通だった。携帯電話はまだ持っていなかった。街の状況を確かめるため、自転車で家を出た。お墓の横で違和感を感じた。墓石が倒れて、遠くまで見渡せるのだ。曲がり角のマンションの階段部分が本棟と離れて傾いていた。古い瓦屋根の家がつぶれていた。池の横は地割れがして波打っていた。ガス臭いにおいがし、あちこちでサイレンが鳴っていた。電車は動いているようだった。知り合いの無事を確かめて回った。スーパーに水はなかった。学校は休みになった。
 夕方になって電気がついた。テレビをつけ、ホットカーペットに電源を入れた。ようやく情報が入ってきた。大勢の人が亡くなったこと、長田が火事で燃えていること。次第に死者の数が増えていく。夜明るい電気にほっとしたが、また余震が来るかもと思うと、不安だった。1階に服を着たまま、みんなで寝た。
 早朝5時半ごろ、電話が鳴った。実家の父からだった。地震以降、全く家からの電話が通じないので、近くの公衆電話まで行ってかけてきたのだ。宝塚の被害も報じられていたので、心配していたが連絡が取れたことで安心したようだった。それからすぐ夫は会社に行き、私と子供たちは家で片付けをした。その頃、何を考えていたのか、今はあまり覚えていない。ただ落ち着かず、食べて元気を出さなければと思っていた。学校は1週間後に再開した。家を失った人が小学校の体育館に寝泊まりしていた。我家は高台にあるためか、戸数が少ないためか、ガスは2月中旬、水道は3月下旬まで復旧しなかった。お風呂は知り合いの家で入らせてもらったりしたが、途中から以前住んでいた家がプロパンなので3日に1回ぐらいそこで沸かして入った。洗濯はあの電話をくれた友人の家でさせてもらった。ほんの一筋道が違うだけで、被害の状況が違った。最初から電気もガスも水も使える家も多かった。
 だんだん復旧が進み日常が戻ってくるにしたがって、それぞれの違いがより明らかになってきた。水道、ガスが使えないことは不便ではあったが、給水車がきたり、ホットプレートで調理したり、何とか生活できることもわかってきた。電気が使えるので、炊飯器で温かいご飯が食べられるのは楽でありがたかった。電車で30分、大阪に行けば普通の生活があることもわかった。復旧作業が急ピッチで進む中、家を失った人、仕事を失った人、何より家族を失った人の痛手は日が経つにつれて増していくようだった。
 3月には東京で地下鉄サリン事件が起こった。最後の水道も復旧し、家も仕事も家族もいる私たちにはだんだん震災のことも過去のことになりつつあった。早くつらい話を忘れたかった。いつのまにか復旧が復興という言葉に置き換えられた。
 そして、16年後の関西、宝塚の我家の回りは、ようやく春が訪れようとしている。ペットボトルの水、電池が品薄なことを除けば、物のたくさんあるいつもの生活だ。テレビを見なければ地震はなかったかのようだ。しかし心は落ち着かない。
 テレビで見る被災地の生活は過酷だ。実際に避難生活を見たことがあるだけにテレビに映さない状況も想像がつく。しかし津波で瓦礫の山になった町は阪神の比ではない。亡くなった人の数、行方不明の数、仕事を失った人の多さ、避難している老人の多さ。どれもが東北の実情を映しているようだ。しかも原発放射能の問題。電力不足による計画停電。東京近辺も騒がしい。
 社会の問題はいくつか明らかになってきた。誰にも決められない運と不運。何よりどこにも絶対はないことだ。どんなに知恵をめぐらせても、想定外のことは起こる。東京一極集中の危険。通常は集中することでコストを下げることができるが、非常時にはそれがリスクになる。電気を止められた都市の生活のもろさ。この小さな国で、電力を融通できない不合理。それを放置してきた政治。原発の状況次第では、このまま日本が存続できるのかさえ心配になる。感情的にならず、構造的な解決ができるのか。直接当事者ではない私は何をどう考えるのか。考えているだけで無力な自分を感じる。