石垣島(2011年3月11日〜14日)


波照間島の海岸。台風で打ち上げられた岩がゴロゴロ。
 3月11日〜14日まで、石垣島へ行っていた。初めてである。はからずも大震災の日に出発したことになった。複雑な気持ちであるが、ここにも日本の問題があると思ったので以下に。

3月11日(金)

 伊丹、那覇乗り継ぎ石垣島午後着。ホテルへチェックイン。予約していたより2ランクアップの高層階の部屋にうれしい変更。眺めがよく気分をよくする。すぐにレンタカーで島内観光に出た。途中携帯で連絡をとろうとしたら、通じなかった。電波の状況が悪いのかと思っていたら、姪より第一報の電話。その後東京からEメールがきた。今回の地震津波の連絡だった。関東にいる息子たちの無事はメールで確認できた。場所が東北らしいということで東京はさほどの心配はないと思われた。東京は電車が動いていないため、帰宅難民がでることは予想されたが、点検が終われば動き出すだろう、そう思っていた。
 石垣島津波警報が出ていた。海岸に近づけないので早々にホテルに帰る。
テレビを見て、相当な被害になると思った。ここまでひどくなるとは思っていなかったが。夜遅くまでテレビを見ていた。

3月12日(土)

 前日に波照間島のツアーを申し込んでいたが、津波警報のため船が欠航になったので島内観光に変更。レンタカーで島内を一周する。石垣島に滞在している人たちは船の欠航のためどこにも行けないので、みんな島内観光のはずだが、そんなに人は多くない。どこへ行ったのだろうか。津波警報は出ているが、海は静かである。途中、移住者の人の住宅らしきものが見えたので見学。眺めがよくおしゃれな建物だが、車がないと買い物は不便そう。一日何をして過ごすのだろうか。
 午後には、警報も解除されたようなので、明日は波照間島に行くことにする。ホテルに泊まっている団体客の中に関東、東北の人が多くいるらしく、係の人が帰りの対応に追われている。

3月13日(日)

 波照間島でレンタサイクルに乗る予定だったが、急遽変更して、波照間島西表島の2島に行くことに。海は穏やかで透明度が高い。
波照間島はかつての津波で集落を海のそばから、中心部に移転したそうだ。
 西表島で印象的な話を聞く。途中、一車線の道路を歩道つきの片側1車線に拡張工事中だった。しかし、歩いている人もいないしすれ違う車もない。地元の人は台風でよく倒れて停電する電柱を地下に埋め込む工事を要望しているが、予算がないと聞き入れられず、山を削って道路拡張工事をしているそうだ。イリオモテヤマネコの地下通路まで作っている。冗談かと思ったら本当の話。だれが、喜ぶのだろうか。土地を持っている人と建設業者か。

3月14日(月)

 夕方の出発なので、黒島へ行くことにする。レンタサイクルを借りて島内観光。海のきれいな人より牛の多い小さな島。のんびりと広い道路を走る。走っている車がいない。歩いている人もいない。牛だけがたくさんいる。自転車としてはこんな走りやすい道はないが、なんのために、こんな道が必要?ここも西表島と同じか。途中で、自転車の前かごの中に入れていた虎の子のおにぎり二つのうち一つをカラスに食べられる。一つ200円もしたのに。ちゃんと袋の中に入れていたのだが。そういえばカラスに注意と書いてあった。

旅行を終えて

 着いて早々に今回の地震津波。家族の無事が確認できたこと、被害の実態がまだまだつかめていなかったこと、関西に直接被害がなかったこと、遠く沖縄にいるとあまり実感がなかった。予定を変更するつもりはなかったが、羽田、仙台空港の混乱などから予定の変更は難しかっただろう。
 初めての石垣島、沖縄の離島の実態は見なければわからない。ここにも不要と思われる公共工事が。30数年前、田中角栄氏のお膝元越後湯沢に行ったことがある。山から下りて、バスに乗ろうとしたがバスはなく、最寄の駅まで歩くことに。広い道路をてくてく歩く。途中でヒッチハイクをしたかったが通る車無し。豪雪地帯で冬には消防車や救急車が通れないからと作った道だそうだ。30分以上歩いて駅に到着。何人のためにこの道が作られたのかと思った。それからも道路は作り続けられ、日本の道路網は発達した。
 小学生のときの運動会の組み体操は最後にまだできていない瀬戸大橋を作るのが恒例だった。今本州と四国を結ぶ橋は三つ。便利になった。便利になったが、地方は人口流出が激しく、都会特に東京ばかりに人口が集中している。今回の地震津波の後に起こった予期せぬ問題は福島の原発の行方と首都圏の電力不足。地方が都会のエネルギーを支えるという仕組みは変わるのか。一時、移住ブームにわいた石垣島もブームは去って空き部屋がたくさんだとか。これといって産業のない島では、観光と公共工事しか生きていく道がない?都会と地方の関係をここでも考えることになった。